「ゴドーを待ちながら」ベケット
2013年 09月 07日
たまたま出会ったこの本は戯曲です。私は昔、ほんの3か月程だけ大学時代に演劇部にいて,発声練習とかしていたことがあるのですが、余りに短い期間だったので、演劇とかその脚本である戯曲とかに興味を持つ間もなく縁がなくなった世界ですが、これは、今朝のtwitterでミヒャエルエンデの言葉をtweetするIDでも取り上げられていた作品でした。
ミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jp
私は、その大変良い設備を持った舞台で、例えば『ゴドーを待ちながら』
が上演されないことを、残念に思っています。―この作品を、私は今世紀
最大の価値を持つ戯曲である、と思っています。
(注:舞台とは普遍アントロポゾフィー協会のあるドルナッハのゲーテアヌム
の舞台のこと)
先日、香川県助産師会での母乳育児支援の講義を「女優さんとしてお話ししよう」と決めて、それに合わせたスライドを制作しました。聞き手にはもしかしたら、私のいつもの講演だったかもしれませんが(^^ゞ。。。
なぜ,唐突に「女優さん」が出てきたかというと、この「ゴドーを待ちながら」は7月からゆっくり読んでいたのですが、その当時、今回の講義をどう構成するかについて色々悩んでいた時期でもありました。その中でこの「ゴドーを待ちながら」を読む内に「伝えるとはどういうことか?」「伝わるとはどういうことか?」と言うことにとても関心を持つ自分に気づいたのです。
元々、私の講義を好んで聴いてくれる人は沢山いるしテーマもざっくりとしていたので,今まで講義で使ったスライドの流用は充分可能だったのですが、それで本当に伝わるのか?と考えてしまって、随分と悩んで構成していきました。
このゴドー、、、物語は、ウラジーミルとエスカルゴという2人の男が,ステージで何かしていたり、いなかったりで、その場所にいるのは「ゴドー(神さまであるGODに関わりのある言葉かもしれない、、、との解説あり)」を待つのが理由だというものです。その待っている2人の前に、奴隷として一人の男を従えた男が現れて、そして去って行くだけなのです。でも、フランスで初公演の時は大喝采を受けて受け入れられた作品なのだそうです。(もっとも米国でデビューしたときは大ブーイングだったとか)
例えば「待つ」という言葉も、「言葉の通りの意味で待つ事」「することが無いけど、することが無いと言いたくない言い訳」「待っていないわけじゃないから、待っている」と、言葉だけだとグチャグチャになりそうなのだけど、ここに役者さんの行動やら抑揚やらリズムやらがつく事で,恐らく生き生きとした笑いの空間になるのだろと読んでいて感じたのです。
で、スライドを作り始めてからは、伝えるということは、相手が関心を持っていることを掬い上げることなのだろうとか哲学問答っぽいノリの自分が、ちょこちょこ読んでいるこの本と妙に噛み合って可笑しかったです。ワケが分からないのに妙に納得してうなずいてしまう感じなのですから。
言葉はきっかけに過ぎないのだというのは、実は母乳育児支援をしているときにも悩みのグルグルサイクルにはまってしまったお母さん達の側にいるときにもよく感じる事なのです。コミュニケーションスキルというのはその、グルグルサイクルを解きほぐして、進行方向を作ってあげるという作業のための技術の一つと思っても良いのかもしれません。
そこを、自分の中に世界を作って、講義に臨んだから「女優さん」です。
聴いてくださった方が「寄り添っている感じが伝わった」と感想を下さったので、恐らく私の講義の形としては大きな変化ではないけれども,私の演じたいことを少しは演じられたのではないかとちょっと安心しているところなのです。
さてゴドーは、ウラジーミルとエスカルゴの元に訪れたのでしょうか。または,これから訪れるのでしょうか。待つものを持つのは、幸せな事かもしれないという感想も持ったのも確かです。
と言うことで、長々しい,そして、割とどうでもいい感想にここまで付き合って下さった方がいらっしゃったら、ありがとうございますm(_ _)m
聴くことの出来る支援者になるために精進して参りたいと思います。
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